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Can You Feel My Heart
1. Prologue - Shattered moon
あなたはこれまでに出会った誰よりも、あなたを愛してくれる人に出会うだろう。あなたに溺れ、我が身を犠牲に、全身全霊をかけ怖いほどに献身してくれる人。いつの日か、きっとそれが誰なのか知ることになる。
私が生まれ落ちた
厳しく凍てつくこの世界
いらない
いらない
それは欲しくない
生かされ続ける日々
私が与えられるものはない
いらない
いらない
これ以上求めるものは
何もない
大広間に据えられた絢爛なディナーテーブルの一席。ワイス・シュニーは整然としとやかに、”適切な”マナーで食事を切り分けていた。頭上に揺れる豪奢な水晶のシャンデリアが肩に重く圧しかかり、終始息を詰まらせてくる。
サラダ用フォークは左、ディナーフォークはプレートの横。右からナイフ、サラダ用ナイフ、スプーン、スープ用スプーン、そしてオイスターフォーク。肉は小さく、上品な大きさにゆっくりと切る。目を合わせるのは禁物。話しかけられる前に話すのは厳禁。息を潜め、感情を殺せ。
「――そう思わないか? ワイス」
上座に座ったすらりと長身の男は尋ねる。静寂をはさみ、闇を湛えた冷酷な瞳は妻の返答を期待していた。
「ええ、あなたの仰る通りです」
乾いた無感情の声で彼女はやり過ごす。良き妻として、良き奴隷としての”適切な”返答。
「ふん、そうだろうとも。先にも言った通り、このところ赤のダストの価格が落ち込んでいる。季節の変わり目と、新しい商品の開発にともなって……」
ワイスは彼の話を聞き流しながら食事に集中した。
――目を合わせるのは禁物。話しかけられる前に話すのは厳禁。息を潜め、感情を殺せ。
彼女は知っている。社交場において不適当な振舞いをした場合、この男は自分に手を上げるということを。そして非情にもそれは日に日に激化していることを。彼がシュニー家の長となってからというもの、平手は拳へと変わり、本物の暴力へと変わっていった。
彼がこの家に婿入りした時、ワイスの父親はこの上なく満足した面持ちだった。自分の遺産は受け継がれ、投資がついに成功したことを証明したのだ。そう、彼にとっての娘は
投資。
彼女は今、夫の奴隷であり傀儡だ。顔色を伺い、機嫌をとって、おだて、へつらう卑しい存在。無論、彼女はそれが嫌だった。ぼろぼろになった自尊心のかけらが彼への服従を拒んだ。しかしもう遅い。結婚してしまった今、反抗することは出来ない。万が一歯向かえば、彼は彼女を貶し、苛み、殺してしまう可能性すらある。きっと彼女を利用し尽くした上で蹂躙するだろう。この男は完全なるサディストだった。
なぜ私の人生はこんなにも見下げ果てた茶番になってしまったのだろう? ワイスは身を震わせた。ビーコンアカデミーを修了してから、彼女は政治と、出身ばかりを気にする陰惨な世界へと舞いもどった。父親はシュニーを世界一のダスト生産会社として存続させるため、早急に彼女を富裕な家の男と結婚させた。一度として、彼が娘の幸福を考えることはなかった。
行かないで、とルビーは哀願していた。むせび泣き、彼女を連れ戻そうとして、そして……
待って……ルビー……
ルビー
ルビー!
ワイスはにわかに悪夢から跳ね起きた。あわや頭を天井、もとい上段のベッド裏にぶつけかける。ルビーが寝ている、そのベッド。自分たちの部屋。ビーコンアカデミーの寮の一室。入学から三年目の半ばへと、彼女は帰ってきた。
逃れられない苦痛と拷問の未来にワイスはぞっとした。ナイトスタンドの時計を一瞥するその顔は弱弱しく蒼白で、汗の雫が伝っている。
午前四時十六分。授業まであと数時間。窓の向こうに未だ浮かぶ砕けた月が、雪に似た白髪を煌々と照らし、肌に得も言われぬ気品を与えた。
ワイスは向きを変えて再び横になった。もう一度眠りたい。しかし、記憶が頭から離れていかない。ビーコンを去った後の自分の運命に付きまとう不安。私はどうなるのだろう? ルビーはどうなるのだろうか?
ワイスはこの場所で、以前は決して手に入れられなかったものを得た。決して手放したくはないものを。
友達、温もり、笑顔、固く結ばれた友愛。戦いの中でパートナーを信じること。彼女らが命をかけてくれるように、自分も命をかけること。
歳月をかさね、ルビーとはパートナーとして、友達として著しく接近した。未だにお互いちょっかいを掛け合っては、ワイスはルビーを阿呆だの、間抜けだの、大馬鹿者だのと呼んでいる。もちろんからかいの範疇で。初めての、そして最高の友達。
ワイスは今でも戦い方や、勉強、食事のマナー、話し方、その他諸々を教えているのだけれど、おそらく理由はルビーに対してまだ認めたくないことがあるから。それはルビーが今やレムナントでも類を見ない優秀なハンターへと急成長しつつあることだ。
それにしてもこのブルネットには未だ不思議なところがある。彼女の近くにいると心が落ち着き、穏やかであたたかい妙な気持ちで満たされるのだ。そして時折、心臓がトクトクと速まり脈がさわぐのを感じる。戦いの最中でもそれ以外でも関係なく、二人が近づいた時にそれが起こることに気付いた。
ルビーと離れることを考えたくなかった。彼女のいない世界は自分の望むものではない。以前は気づかなかったが、振り返ると自分の過去はひどく孤独で辛辣なものだった。ワイスは家庭教師とメイド達によって育てられたが、彼らは皆、契約上の最低限のことしか教えてくれなかった。両親はと言えば、彼女にシュニーダストカンパニーの後継者にふさわしい振舞いだけを求めているようだ。疑念は常にまとわりついていた。自分は彼らにとって重要な存在なのか? 人として? 娘として?
友達はなく信じられる人も居なかった少女は、やがて棘をまとい、警戒心が強く、気みじかな娘へと育った。
けれど今は違う。ワイスは一人の少女に出会った。不器用でまっすぐ、優しくて素晴らしい、ルビーという名の。奇妙にもこの少女は、友達になりたいということ以外の何も求めてこなかった。初めは”友達”という言葉にワイスは警戒した。このブルネットは自分がシュニーの跡継ぎだからという理由で近づいてきたに違いない。そう確信して、毎日毎日、くる日もくる日も彼女を遠ざけることに努めてきた。
しかしそれも昔のこと。ルビーは壁を壊し、生き方を教えてくれた。誰かのジョークに対して笑うこと、誰かの短所に目をつぶること、そして誰かの成功を心から喜ぶことを。
彼女のそばにいると、どことも、誰とも違う感覚に浸される。
ある国では、ワイスは紛れもなくシュニー家の令嬢であり、誰もが彼女に品のよい振舞いを、カーテシーを期待していたというのに。この年下の少女ときたら、彼女にまるで期待していないようだった。
ルビーにとって、ワイスはただのワイス。パートナーであり親友。一緒にいるだけで楽しい女の子。
本当に自分は別人になったと自覚する。本当の生き方を知った今、あの凄惨で欠陥だらけの世界には二度と戻りたくはない。両親はきっと娘に望まぬ結婚を強制し、会社の幸福を優先するだろう。そして少し昔の自分であれば、不本意ながらもそれを受け入れたかもしれない。
今は、別の人生の歩み方を知った今なら、それが間違っていることがはっきりと判る。それでも彼女は未だに、学校での「成果報告書」を毎週実家に送らなければいけない。両親は、もし自分たちの”投資”が無駄になると確信したら、彼女を家に連れ戻すつもりだろう。
薄氷の上を歩いているようだった。もうそれにも疲れた。
ルビーは支えだ。心を開くまでにずいぶん長い時間がかかったが、彼女は笑顔を絶やさず根気強く待ってくれた。秘めたる不安を打ち明けるようになれるまで。粘り強く。ただ優しく聞いてくれるその存在に、ワイスは不思議と内側があたたかくなるのを感じた。
ルビーはワイスが受け入れた初めての人だった。他の誰も自分の中に立ち入らせることはなかったが、ルビーだけは違う。彼女はパートナーに対して……やや独占欲が強いところがあった。ルビーの侵入だけを許したのは事実。本当に必要な存在だったから。
ワイスはベッドの中で、あの悪夢のような未来を頭から追い払おうと試みた。ビーコンを去ったあと。ルビーと離れたあとのこと。
この不安をなだめるものはひとつしかない。
慎重にベッドから抜け出し、背伸びをすると、辛うじて頭が二段ベッドの上の角を越えた。そこにはハンター見習いのルビー・ローズ。カーテンを通して差し込む月の光が彼女の半身を照らし、半身に影を作る。ワイスはベッドに手をかけ、良く見えるようにそっと身を乗り出す。上から下まで輪郭をなぞるように、この年下の少女の眠る姿を見つめているとどうだろう、顔に熱が帯びてくるのを感じた。
……大丈夫。パートナーのことを知りたいと思うのは正常なこと。身体のことだって……。
ルビーはビーコンで過ごしているうちに驚くほど成長した。背がかなり伸びて、もうじき六フィートに届きそうなほど。それ以外にも成長したのは、胸囲。決して認めないが、ワイスはルビーの成長に嫉妬していた。その両方に。一方のワイスは小さいままである。何がとは言わないが。
眼前のブルネットは仰向けに、片手は顔の横、もう片方は胸に置いて寝息を立てていた。呼吸に合わせ、ゆっくりと胸が上下する。彼女は今でも昔と同じパジャマを着ている。黒のタンクトップに、ピンク柄の白いズボン。ワイスがどれだけ新調しろと説得しても、てんで聞かなかった。ルビーはものに対して執着があるらしい。それがたとえ、服や鉛筆のような些細なものであったとしても。
パートナーの幸せそうな寝顔を見て、気持ちが幾分か楽になり思わず頬がゆるむ。今は大丈夫だ。何もかも。たとえ未来に何が待ち構えていたとしても。
しばらく見つめることに没頭していると、ルビーの何かが自分を落ち着かせていることに気が付いた。これはおそらく薔薇の香りだろうか。
いい加減脚が疲れてきて、ワイスは自分のベッドへ戻ることにした。布団を被り、横になる。眠るには十分なほどに心は落ち着いていた。時計が示すは午前四時二十七分。眠る時間はまだ残っている。枕に頭をしずめて静かに一息つく。
まだ皆は夢の中。この言葉を誰も聴いていないことを祈る。
「ありがとう、ルビー」
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